「自由の相互承認」批判に対する苫野氏の答え

philosophy

私が「自由の相互承認」に疑問を持ったように、「自由の相互承認など実現不可能」という批判は苫野氏に数多く寄せられるようです。批判は大きく分けて次の3点に集約されます。

1.「自由の相互承認」は実現不可能な理想主義に過ぎないのではないか
2.「自由の相互承認」は当たり前のことを言っているに過ぎないのではないか
3.「自由の相互承認」は抽象論に過ぎないのではないか

苫野氏はそれらの批判に対して、2018年9月にTwitter(現X)で次のように説明されています。

苫野氏の熱い思いがひしひしと伝わってくるコメントです。私は哲学者とは、常に冷静に感情の動きを見せず、理詰めで淡々と相手を論破するような人たちかと思っていました。しかし苫野氏の「信念」とも見える言葉を見ていると「哲学とは何か?」という新たな疑問が沸いて来ます。

これはもはや一つの宗教では?
「自由の相互承認」を信じない人間は「信心が足りない」のでしょうか?

私は理念としての「自由の相互承認」には大いに感銘を受けています。私の疑問は「自由の相互承認」を実現するための方法論が漠然として見えないことにあります。理念を示すだけでなく、それを実現するための「地図」や「設計図」を考えるのもまた哲学者の仕事ではないのでしょうか?

少なくともカントは「永遠平和のために」でかつての国際連盟のもとになる構想を示しました。(もっとも国際連盟は機能不全から解散し、現在の国際連合は旧連合国の有志組織として「United Nations」という名前をそのまま冠しています。戦争に勝利した国々の「力による支配」が国際連合の本質です。その国際連合も今や国際政治への影響力の衰えは否定できません。)

さて「自由の相互承認」実現に向けての「地図」や「設計図」は一体誰が描くのでしょうか?

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