「対話」という限りなく軽い言葉

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哲学者は「対話」という言葉を多用します。現代においては「哲学者」以外にも多くの人たちがこの言葉を口にします。例えば「政治家」。例えば「教育者」。場合によっては「経済人」も。皆さん何かにつけて「対話」という言葉を「錦の御旗」の様に口にします。でも、それなりに地位も名誉もある「指導的立場」にある方々が「対話」という言葉を使うたびに、私はこの言葉の持つ「虚しさ」に愕然とします。一体、どれだけの人たちがこの言葉に真剣に「魂」を吹き込もうと考えているのでしょうか?

多くの人たちが使う「対話」という言葉は、「私は自分の立場を一方的に主張するだけでなく、対立相手の意見にも耳を傾ける度量のある人物である」ということを主張するための、お飾り的な意味合いしか持たないように感じます。しかし現実には、この言葉を使う多くの人々は「積極的に相手の主張に耳を傾けよう」などと言う気持ちは、一切持ち合わせていていないようにしか感じられません。

哲学の世界で「対話」の重要性を最初に世に知らしめたのは、間違いなくソクラテスでしょう。彼は当時のギリシャで隆盛を極めていたソフィストたちの知識の浅さを、対話を通じて世にあからさまにしました。しかし、彼は世間の喝采を受けると同時に論敵たちから怒りを買うことになり、ついには刑死する運命を辿りました。身も蓋もない言い方になりますが、「ソクラテス的対話術」は相手を怒らせ、世間の対立を煽る効果しか持ち得なかった訳です。

師匠であるソクラテスを失うこととなったプラトンは、民衆の無知を呪い、民主主義とは結局のところ「衆愚主義」に過ぎないと断じて「哲人政治」を目指します。しかし、彼の理想は結局成就することなく、21世紀に至っています。

20世紀において「哲人政治」を目指した一人がアドルフ・ヒトラーです。彼は古今東西の哲学者に憧れ、自らが「哲人総統」と称されることを望みました。その流れの中で注目されたのがニーチェであり、ハイデガーでした。彼らはナチスドイツに利用されただけとも言えますが、当時のドイツの民衆は哲学者たちを「利用」したヒトラーに熱狂し、そしてドイツは敗戦という大きな代償を払うこととなります。その過程で起こったホロコーストを、ヒトラーが崇拝した哲学者たちはどんな思いで見つめていたことでしょう。私には、ルソーに憧れたロべスピエールが起こしたフランス革命における政敵の粛清は、ナチスドイツのホロコーストと重なるように思えて仕方がありません。すべては「対話」を旨とする哲学者ソクラテスの末裔たちの引き起こした血なまぐさい事例の数々です。

長年にわたる「哲学」の「対話」のリレーが、世界をより良い住みよい場所にして来たという苫野氏の主張を否定するつもりは私にはありません。それは確かに一面の事実であることは認めます。しかし一方で、哲学が歴史に残る悲惨な出来事の背後で、その「首謀者」たちの思想の一部を担っていたことはどう理解すればよいのでしょうか?

例によって「それは誤読だ」の一言で片づけるだけなのでしょうか?だとすれば、哲学とは一部の方々にとっての都合の良い道具に過ぎないような気がします。

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