私が苫野氏のオンラインサロンに参加していた際、「本質観取の会」には何度か参加させて頂きました。苫野氏は「本質観取こそが哲学の極意」と言い切ります。しかし私は「本質観取」には最後まで納得することは出来ませんでした。
「本質観取」の「源流」はソクラテスの「対話法」にあると私は思います。多くの人間が「この言葉の定義はこれで良いはずだ」と考えているその「定義」を疑うことから始まる「言葉」の再定義。確かにその「言葉」への厳密な態度は「哲学」の基本的な姿勢として何の疑義を生じるものではないと私は感じます。
しかし、その「言葉への感度」自体が、人によって異なるとしたらどうでしょうか?全く同じ言葉を使っていたとしても、その言葉に対する「感度」が異なる人同士が同じ意識で一つの問題を語り合うことはそもそも出来るのでしょうか?
「同床異夢」という言葉がありますが、言葉に対する感度の異なる人同士が同じ議論を行うこと自体がそもそも「不可能」なことではないのでしょうか?
「本質観取」に参加させて頂いて感じたのは、ある人は言葉の定義を厳密に行うことによって「満足感」を感じている一方で、ある方は「自分が求めているのはこんな定義ではない!」と悶々としているその「非対称性」でした。
「本質観取」を称賛している方は良いでしょう。本人が満足しているのですから。しかし「自分が求めているのはこんなものではない」と感じている方にとっては「本質観取」とは何の意味も持たない虚しい「言葉遊び」に過ぎません。
私は「本質観取」によって言葉の定義の「解像度」を高めることは出来ても、その言葉を使う個人の「納得感」を高めることは出来ないように感じています。
それでも「本質観取は素晴らしい」というのであれば、その素晴らしさの「本質」をこそ、私は定義して頂きたいと感じています。
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