私が「自由の相互承認」の理念に初めて触れた時、「この考えは、この世界をより良い場所にするための素晴らしい考え方に違いない!」と強烈なインパクトを受けました。しかし、その後様々なテロや戦争などの世界の「現実」を見るにつけ、「哲学」は「現実」を変える力は全く持っていないと考えるに至りました。
確かに「数百年単位」で考えれば、「哲学」は大きく世界を動かしてきたのかも知れません。しかし、私たちが日々体感している「現実」を見る限り、「自由の相互承認」は何の力も持たない「見果てぬ夢」に過ぎません。「哲学が世界を変えて来た」というのは、哲学を生業とする学者たちの「ポジショントーク」に過ぎないのではないか?「自由の相互承認」に対する期待が大きかっただけに、今の私は「自由の相互承認」の現実への対応力の無さに大きな失望を感じています。
「自由の相互承認」に対する無力感と同時に私の中に生まれてきたのが、「多文化主義」などの現実の世界に立脚したいわゆる「政治哲学」への関心です。「多文化主義」「文化多元主義」「民族多元主義」「エスノセントリズム」等々…。これらの思想は「自由の相互承認」を実現させるための「具体的な思考実験」として大変魅力的です。
そして「自由の相互承認」の抽象性を補うもう一つの考え方として、「公共哲学」も研究の価値のある思想と直感しています。代表的な論客として「マイケル・サンデル」が挙げられますが、私は彼の「正義論」にはあまり関心を持てないでいました。さらに言えば、「トロッコ問題」など恣意的なケーススタディを通じて聴衆を自分の望む結論に意図的に誘導するその講義スタイルは、「詐欺的」と嫌悪感すら感じていました。
しかし視点を変えて「公共哲学」の論客としてサンデルを見た時、その現実に立脚した数々の論文は「自由の相互主義」の抽象性をカバーする様々な「視座」を提供してくれるものではないかと感じます。
私は「哲学」を体系だって学んだわけではありません。「自由の相互承認」に憧れ、信じ、そして失望しながらも諦めることも出来ず、自分なりに手探りで勉強を続けている一介の「素人」に過ぎません。そして「自由の相互承認」の実現に向けての具体的な「道筋」は、哲学者を含め、誰も納得のいく答えを教えてはくれません。
私の「哲学」への興味など、哲学の専門家の目から見れば鼻で笑われる程度の未熟なものであることは間違いありません。しかし「多文化主義」や「公共哲学」など、今まで私が全く知らなかった概念に自分自身の力で辿り着いたことには、「不器用なりに一人で頑張っているじゃないか!」と自分を褒めてやりたい気持ちです。
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