「One on One」は「対話」として機能しているのか?

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最近「One on One」を上司と部下のコミュニケーションの改善手法として取り入れる会社が増えています。従来から「人事面談」という機会はありましたが、これは上司から部下への一方的な「指導」の場でした。これでは部下が抱えている様々な気持ちを吸い上げることは出来ず、不満を抱えたままの部下は「退社」という会社にとって望ましくない選択をすることもしばしば起こり得ます。そんな反省から、部下の気持ちを自由に発言してもらい、上司と部下の双方向のコミュニケーションを図る場として「One on One」が注目されてきたのでしょう。

日本社会は良くも悪くも「横並び」の傾向が強い社会です。この「One on One」も一部の会社が取り入れると「我が社も後れを取ってはならない!」とばかりに実施する会社が一気に増えました。しかし、「One on One」が本当に組織内のコミュニケーションを活性化し、従業員の成長や組織の成長に寄与しているか、私は大いに疑っています。

日本は伝統的に「和」を貴ぶ社会と言われてきました。これは「議論」を通しての「和」ではなく、「立場の強いものの意見に文句を言わずに従う」という消極的な「和」でもありました。日本には「面従腹背」という言葉もあります。表面では従いつつ、腹の中では反対のことを考えている、場合によっては反旗を翻す、そんな意味の言葉です。

「One on One」には「面従腹背」の匂いがします。上司は「良かれ」と思って部下に発言の場を与えているつもりでも、部下は決して本当の気持ちを開示することは無いでしょう。なぜならば、そこには「対話の非対称性」が存在しているからです。かたや上司、かたや部下という、「服従関係」が最初から存在する当事者同士です。そんな関係でも本音でお互いの気持ちを語り合えば「共通の目標」に向かって成長していけるに違いないと考えること。それは、美しいけれどもナイーブすぎる「理想」に過ぎないように私には感じられます。目標達成は絶対的なものではなく、部下は嫌なら「辞める」という選択肢も持っているのですから。

私は「One on One」もまた、「八紘一宇」と同じように「自由の相互承認」に共通する理念を根底に持っているように感じます。「One on One」が上司と部下の「共通了解」として求めるものは「会社の利益の向上」でしょう。それがあって初めて上司も部下も、会社に関わるすべての人が幸せになれる。しかし、そんな強いられた「共通了解」は「面従腹背」の気持ちを生ずる上下関係を持つ人間同士の間ではいとも簡単に崩れてしまいます。

「対話」を考える際には、いくつかの条件が必要なのかも知れません。「対話」が有効に成立するためには、一体どんな条件を満たせばよいのでしょうか?それは対話する人間の「立場」を出来るだけ公平になるように配慮することでしょうか?それとも共通了解を得られるように「対話のテーマ」を慎重に設定することなのでしょうか?

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