「自由の相互承認」は「理論物理学」か?

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「自由の相互承認」と、それを実現するための原理としての「現象学」「共通了解」「本質観取」。確かに、原理としては相互承認は可能なように見えます。

しかしすべての人は「感情」という厄介な代物を抱えながら生きています。「本質観取を行うことで誰もが納得できる共通了解に辿り着くことは可能」といいますが、それは本当に可能なことなのでしょうか。

「理論的には共通了解は可能」なのかも知れませんが、怒りや憎しみ、悲しみや絶望を抱えた人たちに、理性的に「対話」することを求めるのでしょうか?それはそもそも人の抱える「業(ごう)」を無視した机上の空論にすぎないのではないでしょうか。

「対話」は「対話」を求める人たちの間にしか成立しない理性的な言葉の交換です。そして理性と感情を完全に分離することは難しい。感情に左右されやすい人間同士が冷静な対話の席に着くためには、まず感情を如何にコントロールするかを考えなくてはいけないと思います。


しかし本質観取の具体的な方法論はフッサールも提示していません。感情という厄介な夾雑物と如何に付き合いつつ実のある本質観取を行うのか。それが私には分かりません。

対話の場における「ファシリテーター」も技術と経験が必要な立場です。公平な仲裁者として対話の活性化を図る役割ですが、その技量には個人差が生じます。しかしそもそも「本質観取」の具体的な方法論が整理されていない現状で「ファシリテーターはかくあるべき」という「お手本」を示す事もまた難しいと感じます。結局は「慣れ」や「コツ」という、曖昧なことばでお茶を濁すしかない。でもそれは、「原理の底の底まで突き詰める」という哲学にそぐわない態度に思えます。

結局、現状における「自由の相互承認」は、将来的な実現の可能性はあるが、そのための道筋や方法論が整理されていない状況に見えてしまいます。それはまるで、物理学の世界で「理論的にはこう考えられる」と学者が唱え、その遥か後世に実験を通じてそのことが証明されることに似ているように思います。

その意味で、「自由の相互承認」とは、まだ実現可能性の担保されていない一つの「選択肢」と考えた方が良いのかも知れません。

では、苫野氏は「自由の相互承認」に対する疑問や批判に対してどのようにお考えなのでしょうか。

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