フッサールは「自然科学は事実学、哲学は本質学」と語りました。自然科学が発見した「事実」に基づく様々な知見は、分かりやすく私たちの生活に実装されて来ました。その一方、哲学が「本質」を求めることから発見したとされる様々な原理は、私たちの生活を具体的にどう変えてきたのでしょう。哲学者の役割は「本質」を語るだけで終わりなのでしょうか。それとも哲学者はその原理を世界に実装するところまで責任を持つべきなのでしょうか。多くの哲学者は考えるだけで「実装」までの具体的な道筋については決して語ろうとしません。
自然科学には様々な発見があればそれを現実の生活に活かし実装化するための道筋があります。学者が何らかの発見をすればそれは論文を通じて広く世界に共有され、現実の生活に活かせる発見は国家や民間を通じて製品や商品として具体的な形を形成していきます。電気製品から原爆まで、自然科学の発見は世界を具体的に変えてきました。
しかし哲学にはこのような具体的な実現の道筋はありません。古代中国の諸子百家は様々な思想を支配層(王様)に自ら進言することにより取り立てられました。哲人政治を求めたプラトンはその政策を実現することはかなわず、アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師を務めるチャンスは得たものの、大王が王位に就いた時には家庭教師の任はすでに解かれていました。ルソーはフランス革命に大きな影響を与えたとされていますが、彼は1778年には死去しており1789年のフランス革命には直接参加はしていません。ルソーの信奉者であったロベスピエールは歴史上かつてなかったほどの恐怖政治でフランス革命を結局は破綻させてしまいます。マルクスの共産主義は哲学史上大きな思想的成果と言えるかも知れませんが、スターリンや毛沢東、ポルポトらの大粛清は、共産主義への幻滅を世界中に植え付ける結果となりました。またヒトラーは哲学をこよなく愛し「哲人総統」と呼ばれることを好んだと言われていますが、彼の行ったことは彼の愛した哲学とどう繋がるのでしょうか。
確かに民主主義や三権分立、人権、法の支配といった今では誰もが当たり前に思う原理は、人類の長い歴史の中で哲学者や思想家が思索のリレーの末に、次第に世界に実装されてきたものでしょう。また哲学者によれば「人類の歴史は戦争による殺し合いの歴史だが、哲学のお陰で戦争は激減した」とのことです。しかし人類が経験した過去最大の戦争は20世紀の第一次世界大戦および第二次世界大戦でした。哲学の歴史は約2,500年に及びますが、その哲学の歴史を踏まえた上で、人類は20世紀に過去最大の戦争を起こしたわけです。またフランス革命や共産主義は哲学自体が多くの人々を殺してきたとも考えられます。決して「哲学が戦争を減らしてきた」と一言で評価出来るものではないと思います。
過去、哲学が歴史的な大事件に対して一部の当事者に思想的な影響を与えたのは事実としても、彼らは哲学者の言葉を「曲解」した上で多くの人々に多大なる苦しみを与えることになってしまった。そしてそのことに対して当の哲学者自身は何の責任も負うことはありません。結局、言葉は悪いですが、哲学者というものは「言いっ放し」のように見えます。
では「自由の相互承認」という哲学的原理は、今後世界でいかに実現されていくのでしょうか。この「原理」は世界平和の大きな可能性を感じさせる言葉ではありますが、それを実現するのは一体誰なのでしょうか?過去哲学が歴史上大きな影響を与えた事件はすべて一部の支配者層による哲学(の曲解)を通じての暴走が招いたものでした。では「自由の相互承認」もまた同じ轍を踏まないと断言することは出来るのでしょうか?
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